LOGINその日の帰り道。
私は一人で駅へ向かっていた。 佐伯さんと別れたあとも、胸の奥はずっとざわついていた。 でも不思議だった。 苦しいのに。 少しだけ楽でもある。 今まで分からなかったものに、名前が付いたからだ。 寂しかった。 不安だった。 恋人でいられなくなっている気がして怖かった。 全部、そうだった。 私はそれを認めた。 認めてしまった。 だからもう、ごまかせない。 ◇ ◇ ◇ ◇ 家に帰ると、悠斗はまだ帰っていなかった。 静かな部屋。 私は着替えて、ソファに座る。 スマホを開く。扉の前で、私は一度だけ足を止めた。 中から聞こえる声は、穏やかだった。 誰かが笑っている。 器が触れ合う小さな音もする。 怖い場所ではない。 それは分かる。 でも、初めての場所の扉を一人で開ける時、胸はどうしても少し硬くなる。 私は案内の紙をもう一度確認した。 開催時間は合っている。 場所もここで間違いない。 販売会の日。 来てもいい日。 見てもいい日。 そう自分に言い聞かせ、扉に手をかけた。「失礼します」 小さく声を出して中へ入る。 最初に感じたのは、土の匂いだった。 強くはない。 湿った土と、木の棚と、少しだけお茶の香りが混ざったような匂い。 書店の紙とインクの匂いとは違う。 でも、不思議と落ち着く。 入口の近くに、受付代わりの小さな机があり、そこに作家さんが立っていた。「あ」 私に気づいた作家さんが、ぱっと表情を明るくした。「来てくださったんですね」 覚えていてくれた。 それだけで、緊張が少しほどける。「はい。案内を見て」「ありがとうございます。遠くなかったですか?」「大丈夫でした。少し迷うかと思いましたけど、看板があったので」「よかった。今日はゆっくり見ていってください」「はい」 私は小さく頭を下げた。◇◇◇◇ 工房の中は、思っていたより広くはなかった。 白い壁と木の床。 棚には器が並び、中央のテーブルにも皿や鉢が置かれている。 奥には、作業場らしい場所が少し見えた。 道具。 布をかけられた棚。 粘土を置く台のようなもの。 ここで器が作られているのだと思うと、胸が少し静かに鳴った。 書店の展
電車の窓の外を、見慣れない町並みが流れていく。 乗り換えは一回。 スマホで何度も確認したから、間違えることはないはずだった。 それでも、駅が近づくたびに少し緊張する。 仕事へ行く電車ではない。 誰かと待ち合わせをしているわけでもない。 ただ、私が行ってみたいと思った場所へ向かっている。 それだけなのに、膝の上のバッグを持つ手に少し力が入った。 窓ガラスに映る自分の顔を見る。 淡いグレーのブラウス。 小さなイヤリング。 少し硬い表情。 でも、嫌そうではない。 不安と楽しみが同じくらい混ざった顔だった。 乗り換えの駅に着く。 私は人の流れに合わせて降り、案内板を見た。 次に乗る路線のホームは、少し離れている。 スマホを見なくても案内は分かる。 でも、念のため画面を開く。 大丈夫。 合っている。 私は改札内の通路を歩いた。 休日の駅には、仕事の日とは違う空気がある。 急いでいる人もいるけれど、どこか全体が少しゆるい。 家族連れの子供が、ホームの端で電車を見ている。 大きな紙袋を持った女性が、友人らしい人と笑いながら歩いている。 私もその中にいる。 知らない場所へ行くひとりの人として。 そのことが、少しだけ嬉しかった。◇◇◇◇ 乗り換えた電車は、最初の電車よりも空いていた。 窓際の席に座ると、外の景色が少しずつ住宅街へ変わっていく。 高い建物が減り、低い家が増える。 小さな公園。 古い商店。 細い川。 線路沿いの花壇。 私はスマホの地図を開き、目的地の駅まであといくつかを確認した。 工房までは、駅から徒歩十分。 歩ける距離だ。 迷っても、
土曜日の朝、私は目覚ましより少し早く起きた。 まだ部屋の中は静かで、カーテンの向こうから薄い光が入っている。 今日は工房へ行く日。 そう思った瞬間、胸が少しだけ鳴った。 緊張している。 でも、嫌な緊張ではなかった。 知らない場所へ向かう前の、少し背筋が伸びるような緊張。 私は布団から出て、カーテンを開けた。 薄い青の布が左右に寄り、朝の光が水色の花瓶に当たる。 花はもう終わりかけていた。 それでも、最後の色を残すように静かにそこにある。 クラゲのキーホルダーも、いつもの場所で揺れていた。「おはよう」 小さく言う。 それから食器棚を開けて、青みのある深皿を取り出した。 今日の朝も、この器にヨーグルトを入れたいと思った。 プレーンヨーグルト。 ブルーベリー。 少しだけ蜂蜜。 丸いテーブルに置くと、いつもの朝食なのに、今日だけ少し意味が違って見える。 この器が生まれた場所へ行く前の朝。 そう思うと、普通のヨーグルトまで、少し旅支度をしているようだった。◇◇◇◇ 朝食を食べながら、私は今日の予定を頭の中で確認した。 午前中に洗濯を済ませる。 軽く掃除をする。 昼前の電車に乗る。 工房の最寄り駅までは、乗り換えが一回。 駅から徒歩十分。 販売会は午後からでも間に合うけれど、あまり遅くならないうちに行きたい。 緊張すると、段取りばかり考えてしまう。 でも今日は、段取りで自分を縛るためではなく、自分が安心して出かけるために確認している。 その違いを、少し分かるようになっていた。 ヨーグルトを食べ終え、器を洗う。 布巾で拭いて、食器棚に戻す。 今日は使った器を置いて出かける。 帰ってきた時、この器が棚にある。
工房の販売会の案内を見つけてから、私は何度かスマホの写真を開いた。 最寄り駅。 地図。 開催時間。 作家さんの名前。 写真展示協力として小さく書かれた、朝倉さんの名前。 その全部を、もう何度も確認している。 それでも、見るたびに少し胸が鳴った。 展示とは違う。 書店の二階ではない。 いつもの帰り道でもない。 電車に乗って、知らない駅で降りて、工房まで歩く。 それはほんの小さな外出のはずなのに、私には少し遠く感じられた。 以前の私なら、たぶん行かなかった。 気になると思っても、詳しくないし、一人で行くのは緊張するし、何も買わなかったら申し訳ないし、と理由を並べてやめていたと思う。 でも今は違う。 緊張しても、行ってみたい。 詳しくなくても、見てみたい。 何かを買うかどうかは、行ってから考えればいい。 そう思える自分がいた。◇◇◇◇ 土曜日に行くと決めてから、私は少しずつ準備をした。 といっても、大げさなことではない。 電車の時間を調べる。 駅から工房までの道を確認する。 財布に少し多めに現金を入れる。 エコバッグをひとつ畳んでおく。 それだけ。 でも、その一つ一つが、私を少しずつ工房へ向かわせているようだった。 金曜日の夜、私は丸いテーブルに座って、スマホの地図を見ていた。 水色の花瓶は窓辺にある。 クラゲも、いつもの場所で揺れている。 食器棚には、青みのある深皿。 その器があるから、私は工房へ行ってみたいと思っている。 作った人の場所。 器が生まれる場所。 そこに置かれる朝倉さんの写真。 考えるだけで、少しそわそわした。 私はノートを開いた。『明
それから数日後、書店の掲示板に新しい案内が貼られていた。 仕事帰りに前を通った私は、ほとんど癖のように掲示板へ目を向けた。 児童書フェア。 読書会。 手作り市。 その下に、見慣れない薄い生成り色の紙がある。『小さな器の販売会』 その文字を見た瞬間、足が止まった。 会場は、電車で少し行った場所にある工房。 開催日は来週の土日。 作家さんの名前。 そして小さく、写真展示協力として朝倉蓮の名前があった。 胸が静かに鳴る。 ついに案内が出た。 私は紙に書かれた地図をじっと見た。 知らない駅。 知らない道。 この書店の二階とは違う場所。 少し遠い。 少し緊張する。 でも、行ってみたい。 その気持ちは、前よりはっきりしていた。 私はスマホを取り出し、案内の写真を撮った。 すぐに誰かへ送ろうとして、手を止める。 まず、自分で予定を見よう。 来週の土曜日。 午後なら行ける。 日曜は洗濯と買い物をしたい。 土曜の午前に家のことを済ませて、午後に工房へ行く。 そう考えると、少し現実味が増した。 私はカレンダーを開き、小さく入力した。『器の販売会』 保存する。 それだけで、胸の奥に小さな灯りがともった。◇◇◇◇ 部屋に帰ってから、私は改めて案内の写真を見た。 工房の最寄り駅。 徒歩十分。 住宅街の中にある小さな場所らしい。 販売会といっても、大きなイベントではなさそうだった。 少し不安になる。 一人で行って浮かないだろうか。 詳しくないのに見てもいいのだろうか。 何も買わなかったら悪いだろうか。
展示が終わった翌週、私は仕事帰りに書店の前で足を止めた。 掲示板から、『小さな器と暮らしの写真展』のチラシは外されていた。 そこにあったはずの白い紙。 器の写真。 朝倉さんの名前。 それらがなくなった掲示板は、少しだけ広く見えた。 代わりに貼られているのは、児童書フェアの案内と、地域の読書会の告知。 手作り市の日程。 知らない町の知らない予定。 展示が終わったことは分かっていた。 それでも、実際にチラシがなくなっているのを見ると、胸の奥が少しだけ寂しくなる。 でも、その寂しさは前のように空っぽではなかった。 あの展示で見た写真は、もう私の中にある。 青みのある深皿は、私の食器棚にある。 普通のヨーグルトを入れた。 ブルーベリーをのせた。 かぼちゃも、トマトのマリネも、少し濃くなった茄子の味噌炒めも入れた。 展示は終わった。 でも、そこから持ち帰ったものは、私の普通の日の中で続いている。◇◇◇◇ 店内に入ると、紙とインクの匂いがした。 入口の平台には、前とは違う本が並んでいる。 季節の料理本。 短いエッセイ。 小さな旅の本。 私は棚の間をゆっくり歩いた。 二階にはもう上がらない。 展示室は片づけられているだろう。 白い壁も、今は何も飾られていないかもしれない。 そう思うと少し寂しい。 でも同時に、次の何かを待つ場所でもあるのだと思った。 朝倉さんが言っていた。 写真は、展示が終わると箱に入って次を待つ。 本も待つ。 器も、誰かの家で使われながら時間を重ねる。 終わることは、消えることではない。 次の場所に移ることもある。 私は暮らしの棚の前で足を止めた。 器の本を
昼休み、スマホが震えた。 私は資料から顔を上げ、デスクの隅に置いていたスマホを見る。 悠斗からだった。『今日後輩来るから適当に飲み物買っといて』 私は画面を見つめたまま、少しだけ指を止める。 ――後輩。 今朝言っていた人だろう。『わかった。何人?』
翌朝、目が覚めるとソファの上に毛布が落ちていた。 悠斗はベッドに戻ったらしい。 私はぼんやり天井を見上げたまま、小さく息を吐く。 身体が重い。 昨日はちゃんと寝たはずなのに、疲れが抜けていなかった。 時計を見る。 午前六時半。 あと三十分で悠斗を起こさないといけない。
食器を洗い終わった頃には、時計は十一時を回っていた。 悠斗はまだ帰ってこない。 私は濡れた手をタオルで拭きながら、なんとなくリビングを見渡した。 静かだった。 冷蔵庫の低い音だけが聞こえる。 こんなふうに一人でいる時間なんて、昔はいくらでもあったはずなのに。 最近は妙に落ち着かない。
玄関のドアを開けた瞬間、部屋が暗いことに気づいた。 午後九時過ぎ。 いつもならテレビの音がしている時間だった。 「……ただいま」 返事はない。 分かっていたことなのに、少しだけ肩の力が抜ける。 私はヒールを脱いで揃える。 その横には、朝履いていった悠斗のスニーカーが無造作に転がっていた。 ――また。







